少し復帰

少しずつ復帰です、ストレス、と疲れから来る、めまいと吐き気だそうです、女性に多いらしいです、(俺、やさしいからかな~)アワビの開口も近いので、無理をしないでいようと思う。

漁協に注文していた、浜ポール、水メガネ、防水のウエットスーツ,しめて10万円なり、帰り際に職員にアワビの入札価格を言われた、あまりの安さに、愕然です、1kg5000円安すぎる価格です、元が取れない、今年の冬のボーナスが無いと同じである、返品と言ったらダメですと言われた、夏のウニ漁もダメ、アワビ漁も期待できない、これでは今年の出資50万痛い。

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高台からの脱出

高台で辛うじて難を逃れた20人,間もなく大きな声がした、大丈夫か、みんな無事か、我々を心配して危険を顧みず安否確認に来た前川自治会長の声である。大丈夫、みんな無事だ安心してくれ

短い会話だた、みんな心配しているたから早く来いと言いながら戻って行った。しかし私達には問題が起きた、80歳過ぎの人達が8人もいる。私の両親もそこにいる、やっと歩ける程度であった。高台に残るか、津波の合間をぬって避難するか、迷う(想定の避難路は瓦礫で年寄りは歩けない)私と金野義男、斉藤和夫で相談する。ここで寒さを耐えて朝まで残るか、合間を見て渡るか、時間との戦いでした、結論は渡ろう、明るいうちに渡る事にした。3班に分かれて渡る事にした、一番歩きやすいとこ瓦礫撤去が始まる、(高台に居たら下に下がらない鉄則だた)私は3班で海の様子を見て義男に連絡、義男は先頭の斉藤さんに伝えて避難を始める、5分位のところ20分かかる、いよいよ私達が最後でに渡る、両親と愛犬と金野弘子が家から持ってきた毛布20枚くらい担いで避難である、いつまた来るか分からない津波との時間との闘いです、歩けない両親進まない、覚悟を決める、津波が来たら諦めよう、その様子を高田から帰ってきた妻が見ていたらしい、がんばれ、がんばれ、の思いだと思う、やっと着いた、斉藤さんらが迎えに来ていた。いち早く非難したみんなと日の出屋で合流しるも余震が続く目の前の道路が亀裂が入った、ここも危険だ会長が家に来い、みんなで前川会長のうちに避難を始める、余震が続く中。今日はここまで次回

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津波被災体験の続き

約15mの津波の高さで止まる。明治29年9,2m昭和8年7.7m遥かに高い。長洞下組ほぼ全壊、流失。ただ呆然とする。引き波が始まる,我われの本当の恐怖はこれからである、ものすごい勢いで引き波が始まる、今まで見たことのない島々がどんどん見えてくる轟音とともに、引き波のしぶきで周りが見えない、何処まで引いていくのか、(地元の名赤磯)の底が見えた。ピンク色だ、向こう側の半島の底が見えた、どこまで引いていくのか、1㎞引いても止まらない。遥か彼方の島(地方名みんぜん)今までちょっとしか見えない島が5つ見えてきた、2㎞位引いたと思う、すると。沖の方で海がどんどん高くなってきた、引き波が押し波を押していく、5m、10m。20m30m、50m、半島の山の高さに見えた,恐怖のあまり足がしくんでしまう、あの波の高さだと確実に、高台が飲まれる、もっと高いところに上がれ、もう後ろがない,木にでも上がれ。そんな危機感でした、結果私だけでした(後で笑われた)生きていたから笑える、その波は崩れ落ちて高台絵を越えることは有りませんでしたが。其の直後でした。反対側にいた人たちが大 声を上げた、後ろ側から波が来たぞ~、今度は広田湾(高田方面)からと長洞の方からの津波が ( アップルロード付近で水合いが出来る。高さ20mとか30mとか)合流して我々方に向かってくる,真っ黒い濁流です、今度は山が崩れる,下の方に下がれ、悲鳴が飛び交う、もう逃げれない、死んでも良いから動けない、山に孤立した我ら20人全員無事である。まだまだ続く被災体験次回

 

 

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